2017年2月21日火曜日

第79話 日本と中国 不再戦のために!!

お元気ですか
整体師ケイスケです

ちょっと投稿が空いてしまいました。
パート労働の環境が変わって多忙になったことも
一因ですがそれはいいわけですから
ペースを作って投稿していきますので
どうぞご愛読ください。

ご縁をいただいているあなたにシェアしたい記事がありましたので
無断転載させていただきます。
少し長いですがどうぞお読みください。

岡崎嘉平太と周恩来。日本と中国をつないだ二人。


「中国には、『水を飲むときには、その井戸を掘ってくれた人を忘れない』という言葉があります」

中国の元首相「周恩来」は、そう話し始めた。

時は今から40年前(1972)、戦争により国交を断絶していた日本と中国が、まさに国交を正常化させんとする、その2日前の夜のことである。それはすなわち、歴史的な「日中国交正常化」の前夜であった。

「まもなく田中角栄総理が中国に来られて、日中国交は正常化します。しかし、田中総理が来られたから国交が回復するのではありません。これまでの長い間、困難な時期にも日中間の友好に尽力された方々があったからこそ、正常化という念願が叶うのです」

日中国交正常化という「甘い水」が湧きいでたのは、それまでに汗を流して「井戸」を掘ってくれた人たちがいたからこそである、そう周恩来は言うのであった。

そして、その井戸を掘ってくれたと周恩来が感謝する人物、その一人が「岡崎嘉平太」であった。


◎暗黒の日中関係

「岡崎さんが今の中国と日本の様々な問題を知ったならば、間違いなく心配で、居ても立ってもいられなくなるでしょう」

岡崎嘉平太を心から尊敬するという、ある中国人はそんなことを言った。


岡崎の生きた時代は、日中関係が暗黒の時代。1894年の日清戦争、1937年からの日中戦争(第二次世界大戦)、そして日本の敗戦…。今とは比べようもないほど、日本と中国の関係は暴力的で険悪な状態が続いていた。

そんな交戦・断絶の関係の中、岡崎嘉平太は日中関係の改善に生命を賭け、そしてそれをまさかまさか、成し遂げたのである。


「隣りの国と、いつまでも敵対しているのはおかしい。主義の違う者の悪口を言って、蹴飛ばして済むか、そういうわけにはまいりません。いつかは友好親善をやらなきゃいかん。それは朝になれば東から太陽が昇るのと同じようなことなんです」

そうした信念を持っていた岡崎は、日本人と中国人がお互いを知り合うことが何よりも大切だと考えた。

「まず、相手を知る。とにかく行ってみる。向こうの人と直接会って、話をしてみる。そうすれば、戦争によって『カラカラに乾いてしまった感情』もいずれ戻ってくる」

生涯を通して、岡崎嘉平太は100回以上も中国へ足を運んでいる。まさに死ぬまで中国へ直接行き、中国人と会い、そして話をしてきたのであった。


◎中国人・留学生との出会い


岡崎嘉平太が初めて中国人と接したのは「中学時代」。日本にやって来ていた中国人・留学生との出会いであった。

親友となった中国人留学生の話はじつに面白い。中国の歴史、文化…、岡崎は大いに感銘を受けた。


ところが、戦争の時代は二人の仲を引き裂くことになってしまう。日本が中国と戦争を始めたため、国内には「中国人蔑視」の空気が充満することとなってしまう。

「オレはもう帰る!」

親友の中国人留学生はひどく腹を立てていた。「こんなイヤな日本だったら、来るんじゃなかった! 一日だっていたくない! 岡崎、君だけはオレに親切にしてくれたから、君だけに別れを言いにきた…」

そう告げるや、彼は本当に中国へと帰ってしまった。



多感な年頃であった岡崎は、この出来事に痛く傷ついた。

そして、それが生涯をかけた日中友好の道へと岡崎を駆り立てていく原点ともなった。


◎泥だらけの額

日本と中国が戦争をしていた間、岡崎には中国に8年間ほど暮らしていた時期があった。上海で国際銀行の理事を務めていたのである。

この中国暮らしの間、岡崎嘉平太の息子・彬(あきら)にとって、一生忘れられない出来事が起きる。


その事件は小さな出来事のはずだった。小学生だった彬が、中国人の子供にケガをさせたというのである。オモチャの空気銃で。

それを聞いた父親の嘉平太、とんでもなく怒った。あまり怒られたことのなかった彬は、すっかりビビってしまう。そして、そのまま嘉平太は何軒も何軒もケガをさせた中国人の子供の家を探し歩き、ようやくその子の家を見つけたときには、すっかり夜も更けていた。


いきなり土下座する父親・嘉平太、同じように彬にも土下座をさせて、泥んこの地面にガンガンと頭を打ちつける。

先方の親子はビックリ。日本の偉い人が、名もなき中国人家族に頭を下げまくっているのである。その額を泥だらけにしながら…。


「中国人を差別するな」。それが父親としての嘉平太が身を挺して示したことだった。

のちに敗戦で日本に引き上げることとなった岡崎一家、その後ろ姿に厳しい言葉を投げかける中国人は一人もいなかったという…。


◎貿易構想


1962年夏、岡崎嘉平太は日中間の大規模な「貿易構想」を提案。

「私の狙いは、中国にプラントを売って、その建設のため、日本の技師や労働者が中国に働きに行くことです。長ければ半年、少なくとも3~4ヶ月は向こうの中国人たちと一緒に働けば、戦争によってカラカラに乾いてしまった感情も戻ってくるかもしれません」


その年の秋、その案を携えた岡崎は、緊張しながら中国を訪問する。

その岡崎を待っていたのは、中国の周恩来首相。運命的な二人の出会いである。


周恩来は話し始める。「日清戦争以来、日本は我が国を侵略し、人民を傷つけ苦しめてきました。我々にはその深い恨みがあるのです」

なんとも手厳しい言葉、岡崎の身はますます堅くなる。ところが、周恩来の次の言葉は、岡崎の硬化していた心を一気に解きほぐしてくれた。

「恨みがあるといえども、中国と日本には2000年にわたる『友好の歴史』があります。戦争による不幸な歴史は、わずか数十年に過ぎないのです。我々は恨みを忘れようと努力しています。これからは中日が力を合わせて、アジアを良くしていこうではありませんか」


心打たれ、感極まる岡崎。すると周恩来、いきなり岡崎に問いかける。「岡崎さんはどう思われますか?」と。

岡崎は一瞬あわてるも、すかさず「刎頸の交わり」の故事を引き出した。一時は仲違いしていた二人が、友のためなら死も厭わぬ仲になったという物語である。

大きくうなずく周恩来。内心、岡崎の中国歴史古典に関する造詣の深さに感心し、そして共感していた。


この会談の成功を受け、岡崎の貿易構想は「日中総合貿易に関する覚書(LT貿易)」という形で現実化することとなる(1962年11月)。

日中両国間に正式な国交が結ばれる10年前、その道を切り拓くために、まずこの半官半民の貿易協定が結ばれたのである。

こうして、細いながらも初めて、両国間に和解の道が拓かれることとなった。


◎親友


「周総理と会っていると、偉い人と会って話しているような感じがしないんです。まったく、何十年来の友人と話しているような、そんな感じを醸す人でしたね」

のちに岡崎は周恩来の印象をこう語っている。

ある時、周恩来は岡崎に「歳」を尋ねた。すると、岡崎は自分よりも一つ年上だった。「じゃあ、あなたが兄だ」と周恩来。二人は兄、弟と呼び合うほどに、信頼し合うようになっていったのである。


こうした岡崎嘉平太と周恩来の親密さとは裏腹に、日本国内の状況は依然として厳しいものがあった。

まず、貿易協定に基づいて、日中双方に貿易事務所が置くことが決まったのだが、外務省は人材を派遣することを拒否。当時の日本は台湾の国民政府と外交関係を結んでいたため、岡崎が交渉を進める周恩来の中華人民共和国を国家として承認していなかったのである。

「いくらお国のためだって言ったってね、じゃあ、中国に行かされる奴はどうなるんだ? どうも、あんまり我が省(外務省)の利益にはなんねぇなぁ…」


次に岡崎が向かったのは通産省。やはり難色を示されるが、岡崎は粘る。通産省の渡辺弥栄司(やえじ)は次第に、岡崎の「先見の明」に感心していく。「これは、本物かもしらん…」。

岡崎の情熱にほだされた渡辺。思い切って人材を中国に派遣することを決め、のちに自らもスタッフの一員となる。


こうした貿易事務所に派遣された一人に、高向巌という人がいたが、彼は岡崎が口癖のように言っていた「事務はするな、中国人と触れ合え」という言葉を鮮明に記憶している。

「岡崎先生はね、ただ単に仕事をしてちゃダメだ。中国人と交わる、日本人が中国人を知る。中国人も日本人を知る。仕事での親しさではなく、『人と人としての親しさ』が大事だよ、と言っていました」


◎抗議


ようやく官を味方につけた岡崎嘉平太。しかし、国民からの抗議は激しさを増していった。

「もう、売国奴って罵られるわ、右翼団体から卵は投げつけられるわ、そりゃあ、大変な攻撃でしたね」と岡崎。

自宅にも脅迫電話が絶えず、巨大なトラックが何十台となく家を取り囲む。「岡崎っーー! 出て来ーーーーいっ!!!」と、ボリュームを目一杯にして。



警察官が家に泊まり込み、子どもたちはブルブルと震えていた。

岡崎の妻も覚悟を決めていた。母親としての彼女は怯える子どもたちに、こう諭した。「あんたたち、お父さんがもし急にいなくなっても、誇りを持ちなさい。お国のためになったんだから…」


抗議活動に揉みくちゃにされながら、岡崎は自宅を出て、空港へと向かい続けた。当然、周恩来との会談を重ねるためである。この激烈な抗議活動の中、岡崎はじつに18回も訪中している。

ある時、息子の彬は父親について中国へ行き、初めて周恩来と会った。その時、周恩来は静かに話しかけてきた。

「君のお父さんはね、たぶん自分のことを言わない。でも、私たち中国人は友のために生死をかけるような人を、本当に信頼するんだよ」

周恩来は続ける。「中国にいる私は、すごく安全だ。誰も私を殺そうとなどしない。でも、君のお父さんが日本に帰ると、ちょっと危ないんじゃないかな。それでも君のお父さんは、中日のために命を賭けてきたんだ。だから、私たちは信用しているんだよ」


◎唯一のパイプ


一部に猛烈な抗議を受け続けながらも、両国に設けられた貿易事務所は確実に機能していた。正式な国交がない中、それはあたかも両国の「大使館」であった。

日中間のあらゆる問題は、この貿易事務所を通して話し合われ、新聞やテレビの記者交換なども実現した。記者は常駐するようになり、日本人が中国を知り、中国人が日本を知るための貴重な情報を彼らが発信することになる。

時は共産主義下の中国、その情報は現在の北朝鮮のように、闇の中にあった中、少しずつその様子を日本人たちが伝え聞くようになっていた。


ところが、日中をつなぐこの唯一のパイプは、時の佐藤栄作政権により叩き折られそうになる。

周恩来の中華人民共和国と敵対する「台湾」を訪問した佐藤総理は、同じく周恩来と敵対するアメリカとともに、「中華人民共和国が『軍事的な脅威』である」との共同声明を発表。

中華人民共和国側が、それを「明確な敵視政策」と受け取り、日本に対して猛反発してきたのである。


◎粘り


時悪く、岡崎の貿易協定は、その5年契約が期限切れを迎え、新たな更新を必要としていた。

その交渉のテーブルは当然穏やかではない。中国側は佐藤政権を痛烈に批判。その誤りを文書で認めない限り、貿易協定の更新はできないと迫ってきたのである。


「決裂」だけは避けなければならないと心に決めていた岡崎嘉平太。粘りに粘り、議論に議論を重ねる。

その岡崎の胸中には、母の言葉が蘇っていた。「自分が譲れば事が丸く収まるときには、譲るものだよ」。子供時分の岡崎は「けんか太郎」、生一本で怒りっぽかった。母はそんな岡崎を心配し、繰り返し繰り返し「譲ること」を諭していたのである。


岡崎とともに交渉のテーブルについていた、田川誠一議員はこう振り返る。

「『切って帰っちゃえ!』って思うことが、あたしらには何度もありましたよ。その点、岡崎さんは練れてましたね。だから、大事なことは全部、岡崎さんにお任せしてました」

このパイプがいったん切れたら、二度とつなげられない、と岡崎は思っており、決して切ってなるものかと、粘り続けたのである。


その末に、ついに中国側も折れた。

過激な表現を柔らかく改めることにしぶしぶ同意し、妥協案を認めたのである。そして、交渉から一ヶ月後、なんとか日中覚書貿易という新たな協定を締結するに至る。

岡崎が身を挺して守った貿易協定は、辛うじて断絶という最悪の事態だけは避けられたのである。


しかし帰国後、岡崎は「中国に屈服した」という痛烈な批判にさらされることにもなる。



◎新たな風


逆風につぐ逆風の岡崎嘉平太。

その風向きが変わるのは1972年。最初の貿易協定から10年たった後のことであった。


この年、アメリカのニクソン大統領は中国を訪問。中華人民共和国は「国連」への加盟を認められ、国際社会への復帰を果たす。

このアメリカの政策変更を受け、当然日本もその潮目に乗ろうとする。しかし、日本政府には「ある懸念」があった。もし、中国との国交を回復しようとした場合、莫大な「戦争賠償金」を請求されるのではないか、という不安である。


日中唯一の窓口となっていた岡崎は、周恩来との会談の席上、戦争賠償金についての話を切り出す。

周恩来いわく、「今、日本に軍部があれば、我々は賠償金を請求したでしょう。しかし、もう日本に軍部はありません。そんな時、もし、我々が賠償金を請求すれば、同じく軍部に苦しんだ日本国民に負担を背負わせてしまうことになります。ですから、私は賠償金は取らないほうがいいと思います」



中国が国交正常化の条件として、戦争賠償金を持ち出すことはないという岡崎の貴重な情報は、日本を一気に正常化への道へと押し進めた。

1972年7月、中国で不人気が極まっていた佐藤内閣に代わり、田中角栄が新政権を発足させた。そして、その2ヶ月後には、中国への訪問が決まったのである。



◎ささやかな食事会


もはや、日中国交正常化は時間の問題であった。岡崎も自分の役割を一つ終えたと感じ、自宅で静かな日々を送っていた。

すると、そこに一本の電話がかかってきた。それは周恩来の命を受けた金光貞治からの電話であった。周恩来は、日中国交正常化が決まるその日に岡崎が招かれていないことに気づき、すぐにでも北京に来て欲しいと金光に頼んだのである。

電話口の岡崎、静かにゆっくりと「あぁ……、恐縮です……、恐縮です……」とだけ繰り返した。この短い言葉には、岡崎の喜びが噛みしめられていた…。



田中角栄総理が中国を訪問する2日前、周恩来は岡崎をもてなすために、一卓だけのささやかな食事会を開いた。

一言話したいと立ち上がる周恩来。「中国には『水を飲むときには、その井戸を掘ってくれた人を忘れない』という言葉があります」

「まもなく田中総理は中国に来られ、国交は正常化します。しかし、その井戸を掘ったのは岡崎さん、あなたです」



岡崎嘉平太と周恩来が初めて出会ってから、およそ10年。

岡崎が日本から引っ張ってきた「細い糸」は、いままさに、国と国とを結ぶ「太い絆」となって結実しようとしていた。



1972年9月29日、戦後27年目にして、ついに日本は中国と正式な国交を開くに至る。



◎友の死


それからわずか4年後、周恩来は78年の生涯を閉じる。死因となったガンが発見されたのは、奇しくも日中国交正常化が叶ったその年であった。

日本でその悲報を知った岡崎。その時からずっと口をきかなくなり、食事もノドを通らなくなってしまう。

「お父さん、かわいそうだった…、かわいそうだったよ…」、そんな言葉を息子の彬さんは母親から聞いた。そんな言葉を今まで聞いたこともなかったのに…。



しばらくして、岡崎嘉平太は周恩来の故郷、江蘇省淮安市の生家を訪れる。

その生家の一画にあった「井戸」。その井戸端で岡崎は涙をためていた。ずっと佇んだまま…。

「周総理、あなたこそ日中友好の井戸を掘った人だ…。今わたしたちが飲んでいる日中友好という水は、あなたが掘った井戸から湧いてきた水なんです…」



◎雨中嵐山


日中国交正常化が成った時、周恩来は「これからもずっと中国に来てください」と岡崎に声をかけていた。

その声に応えるように、岡崎は老齢になっても精力的に中国を訪れ続けた。そして、中国へ行くときは決まって「初めて中国に行く人」を日本から連れて行った。それは、少しでも多くの日本人に中国人を知ってもらいたい、という願いでもあった。

岡崎自身、中学時代に中国人を知り合えたことが、中国人を好きになるキッカケとなったこともあり、岡崎は積極的に若者たちの交流を後押しした。北京にある日中交流センター生んだのも岡崎であり、今まで何百人、何千人という中国人留学生が日本に行く橋渡しとなってきた。



周恩来その人も、若き日には2年間ほど日本に留学している。「雨中嵐山」という詩は、周恩来が日本を去る時に詠んだものである。



雨濛々として 霧深く
陽の光 雲間より射して いよいよなまめかし

世のもろもろの真理は 求めるほどに模糊とするも
模糊の中に たまさかに一点の光明を見出せば
真にいよいよなまめかし



この若き日の詩は、その後の日中関係を示唆しているかのようである。

雨が朦々と霧が深く、前途もなかった日中関係。その厚く暗い雲間から差し込んだ一条の光明。そこから真理が現れ、ついには国交正常化へと道は進む…。



◎中国古来の徳


周恩来と会ったアメリカ大統領ニクソンは、「上品で、並々ならぬ知性をそなえた繊細な人物」と周恩来を賞賛している。

あるジャーナリストは「周恩来は中国古来の徳としての優雅さ、礼儀正しさ、謙虚さを体現していた」と書いた。

周恩来の後を継いだ鄧小平は、「彼は同志と人民から尊敬された人物である」と語っている。



ある時、北京の料理店で食事をしていた周恩来は、店員の間で起こった「揉め事」の仲裁を買って出た。

双方の言い分を十分に聞いた周恩来、「どっちも悪い」と断を下した。「なんでだよ!」と気色ばむ店員。どちらも自分が悪いなどとは思っていない。

「お前さんたち、二人ともお客さんに料理を出すのを忘れているじゃないか」と周恩来。店員としての本分を忘れたことを気づかせたのであった。



この逸話もまた、のちの日中関係の修復を示唆しているかのようである。

日本も中国も、政治闘争に明け暮れている時代があった。しかし、政治家としての本分は? それは国同士を争わせることではなく、国民を食わせることではなかったか。

周恩来の英断は、その本質の筋に沿うことを決して忘れてはいなかったのである。



◎100回くらいでは分からない


1989年、岡崎嘉平太の訪中はじつに100回を数えた。

「中国のような奥深い国は、100回くらいでは分からない」。そう言う岡崎は、さも嬉しそうだった。

そして、その3ヶ月後、岡崎嘉平太は息を引き取る。92年の生涯であった。その棺には敬愛する周恩来お写真が添えられたという。



故郷の岡山県に眠る岡崎。その墓へお参りする中国人留学生は、今でも後を絶たない。

「素直な若いときにこそ、お互い知り合い、交流することが大切だ」と考えていた岡崎。彼の渡した日中交流の橋を行き来した留学生は数知れない。

岡崎奨学金で日本へ来た中国人留学生の一人は語る。「私たちのような普通の人の交流をもっと広げていきたいです。お互いが、どういう生活をしているのか、どんな違いがあるのか、それを知ることが大切だと思います」



◎井戸の水


中国に留学する日本人も、周恩来の生家を訪ね、その井戸を見る。

日中をつないだ井戸。それを掘った周恩来と岡崎嘉平太。そして、そこから湧いて出た水が、戦争でカラカラになっていた両国民の心を潤した。

「子どもたちの世代も、そして次の世代も、この水を枯らしてはいけない」と岡崎は常々言っていた。



「信は縦糸、愛は横糸、織りなせ人の世を美しく」

これは岡崎嘉平太の言葉である。



「この機織り(はたおり)作業の素晴らしさに目覚めるとき、新しい社会への道は、決して苦労などではなく、楽しい発見の営みになっていくのです。

より良い日本、より良いアジアの錦織をあとに続く人々に遺すこと、それが私の心からの願いなのです」



海を挟んで国境を接する日中両国、時には風波も立つだろう。

それでも、両国2000年の歴史のその大半が平和的であったことは、偉大なる事実である。

それは岡崎嘉平太や周恩来のような人々が、永い歴史に点在してくれていた、そのお陰でもあるのだろう…。



時おり、埋まりかける井戸。

それをますます埋めようとする人々もいるかもしれない。それでも、岡崎嘉平太は掘り続けた。上から泥をぶっかけられても…。



あれから40年。

今の日中関係に、岡崎ならば何を想い、何を成すのであろう?
                                        (引用以上)
 
日本と中国……再び戦争してはならない。
いや日本はどこの国とも戦争してはならない。
 
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2017年2月8日水曜日

第78話 押忍考 「精神の自立宣言」

お元気ですか
生体師ケイスケです
ブログタイトルの説明文にあるように
私は空手家の端くれでもあります。
数年前に書いた文章ではありますが
ご縁をいただいたあなたにシェアさせていただきます。

今日は空手の世界でよく使われていた「押忍」という言葉について書きます。

もともと、私が空手に興味を持ったころ(40年数年前)、空手の世界では「上位下達」の挨拶言葉でやたらと「オス」が使われている印象があり、それが空手に対する嫌悪感にもつながっていました。

この「オス」という言葉は、空手の世界で「ハイ」という返事の代わりに使われる独特の言葉なのです。空手の世界に住む人たちに対するイメージはこの「オス」という言葉から受ける印象と深く結びついているように思われます。「目上の人」に対して、いつも「オス、オス」というただひとつの言葉しか返さない空手の世界の住人たちを、外部の人たちはまず絶対的な上下関係の中に生きている、前近代的な精神の持ち主とイメージしています。自分自身の考えや意見を持たない、服従するだけの没主体的なキャラクターとしてのイメージです。もっといえば、腕力はあるけれども、一人の人間としての精神的自立力に欠ける、ある種の退行したイメージです。実際、権力や金力のある者に媚へつらい、彼らの庇護の下に、肩で風を切って歩くような風潮、「強い者に弱く、弱い者に強い」といった悪しき傾向が、武道界空手界にある、と思いました。

 空手の世界ではよく使われている(実態は良く知らないが)「押忍」という言葉に対する違和感や嫌悪感を持ったことがあります。それは、空手道場やそこでの人間関係が、絶対的な上下関係になっていて、それで見せかけの組織の強さが保たれていることにつながります。いうまでもなく、絶対的な上下関係の中からは、本当の人間の強さは生まれてはきません。それが生み出すものは、組織としての集団的な権力システムの強さだけです。武道とは、本来的に人間としての強さを磨いていくためのものです。個人としての人間が抱いている信念や思想という精神的な側面の力を高めていくためにこそ武道は存在しているはずです。「オス」をやたらと乱用する武道界(道場)は、本来の武道とは逆行した作用を個々人の精神に及ぼしてしまっているといえます。

 ところで「オス」という言葉は、普通「押忍」という漢字が当てられます。この二つの漢字は意味的には正反対の概念をもっています。一方の「押」という字には、たとえば「あの人は押しが強い」とかいう場合に用いられる、積極的で能動的な意味が込められています。それに対して、もう一方の「忍」という字には、「我慢する」とか「耐え忍ぶ」とかいう受動的な意味合いが込められています。ここからわかることは、「オス」は本来、ただの服従のための返答の言葉ではないのです。なぜか間違った使われ方をしてきたのだと考えられるのです。

 目の前の相手に対し「オス」と答え、状態としては従いながら、心の中ではその相手を「押して」いる、つまり一見その目の前の相手に服従しながらも、精神は「押されて」いない、精神だけは相手に対し盲従せずにそこから自立している、そういった複雑な心理状態がその「オス」という返答の言葉の中には込められているのです。世間の一般的なイメージとしては「ハイ」という言葉よりももっと服従の意味合いの強い「オス」という言葉が、実は「精神の自立」の心理状態を含み持っているのです。本当は絶対服従のための返答の言葉ではなく、「たとえ目上の人間であろうとも、<耐え忍ぶ>だけではなく、心は絶対に<押し>ていろ、完全に服従するな、心だけは相手から自立していろ。」本当はこういった心理状態をこそ、この言葉は使う人に要求しているのだと思います。元来はこういった内容が込められているはずのこの「オス」という言葉が、どうして絶対服従の意味合いをもったものとしてしか用いられなくなったのでしょうか。それはおそらく指導>の側に問題があります。空手の指導者たちが、そういったところまで空手の武道性の意味を深めていない、というより、間違って捉えていることに原因があると思われます。

 「押忍」という言葉に込められる「忍びながらも押し続ける」という心の状態に込められている思想は正しく伝えたいものです。自分の自立した信念と思想以外の何物にも絶対服従しない、いかなる上下関係の中におかれようとも、自分の自立した精神を持ち続ける、そういった意味をもつことを正しく伝えたいものです。「押忍」というたった一つの言葉をめぐって、どれだけの精神の在り方を空手の指導者たちは人々に伝えているのでしょうか。

 私は空手家のはしくれとして、「オス」という言葉を正しく復権させることは、武道の復権というライフワークにとっても大事な一端だと考えています。もし本当の「空手の思想」というものが身についていたら「オス」という言葉から社会(世間)に対して服従のイメージを与えるようなことはあってはならないのです。絶対服従の状態を拒否するからこそ「オス」という言葉を用いるのだという姿勢をむしろ門外漢の人々にも伝えていくべきなのです。

 今はかつての空手ブームも去り、どの団体も大人の入門者が少なくなっているようです。子供の入門者が増える中、保護者の方がお子さんに「礼儀・しつけ」を求めて入門させたいとよく言われます。私ども○○○○○○○○○○に集う人間関係は「教えあい学びあう」という不文律の道場訓のもと、「精神の自立宣言」としての「オス」を用いていきます。

仙人さんの内弟子チームのみなさんも「オス!」を良く使われていますね。
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2017年2月3日金曜日

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2017年2月1日水曜日

第77話  ダメヨン晋ちゃん!!

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整体師ケイスケです
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ケーキ屋の健ちゃんも
花屋の澄子さんも
分かっている
武器や軍隊に
お金をかける分
仲良くするために
お金を使えばいいじゃん
きっと
お釣りがくるよ♬
このことに目をそむける
政治屋の晋ちゃん
「防備は攻撃を引き寄せる」モンテーニュ
アメリカがそのことを証明しているのに  ネ

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